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<5>世界への復帰を願う戦後日本の体操界と三重の体操(1950〜1952)

「国敗れて山河在り」1950年(S25)後半ともなれば、終戦から5年占領かといえど軍国から民主国家として政治・経済・教育文化・ その他社会一般にいたって切り替えは早く急激な大変革と発展の世情は「もはや戦後にあらず」とまで言われた。

 特に1950年6月朝鮮戦争勃発から翌1951年7月の南北休戦会談成立までの間は空前の特需景気により日本経済はその復興力を加速した。 それに伴い国内の各競技団体・各県体育協会などはその組織の再建を成し、日本体育協会・文部省も指導力をもち、全国規模の大会・ 国民体育大会なども定着してきた。また、学校体育・社会体育スポーツ振興にも国民の関心が一段と高まってきた。

 そんな中で1950年5月米日交歓体操競技会(当時占領下のため日米でなく米日)として、戦後初の国際大会が開かれた。 そして1951年(S26)対日平和条約調印され、日本は国際社会に復帰した。更に同年日本体操協会はフローレンスで開かれた第30回 国際体操連盟総会において復帰が承認された。そしてこのことが戦前の第11回ベルリン五輪以来16年ぶりのヘルシンキ五輪参加(1952)に つながっていくこととなった。一方、国内では全日本・国体・インカレ・インターハイなどがそれぞれ定着し、高校は 総合体育大会が最高権威をもつ大会となった。そこで、第1回全国高等学校総合体育大会・体操競技の部は水戸市体育館(旧海軍 爆撃機格納庫改造)で開催された。これに伴い各ブロック・各県でも第1回総体として開催され、東海総体は旧菊里高女雨天体操場、 三重県総体は津高校グラウンドで行われた。

 当時の三重県体操界は三重県体操連盟として、角理事長・家崎高体連専門部長らを中心にある程度の役員組織を構成していたが、 三重大学体操部を動員しなければ大会運営など不可能であった。ところが前述の体操の国際復帰ブームから、高校体操競技人口の方は 男子11校・女子8校と案外多く、買い物の列に並ぶような状態で一種目に選手がむらがっていた。矢崎部長は徹夜で役員・審判員の 腕章作りのミシンがけをされ、選手は鉄棒下の砂場ならし、跳馬助走路のローラーがけ、徒手(床運動)ライン引き、(いずれも アウトドア)など仮設に協力した。当時の県内選手の成績は下記の通り。

1951年(S26)第1回三重県高校総体

男子 団体総合 1位 津 2位 山商工 3位 山高
男子 個人総合 1位 池田(津) 2位 楠木(山商工) 3位 倉田(津)
女子 団体総合  1位 津 2位 山高 3位 尾鷲
女子 個人総合 1位 倉野(山高) 2位 前田(津) 3位 小崎(津)
同年 東海高校総体
男子 個人総合 3位 池田(津)
男子 つり輪  1位 池田(津)
同年 全国高校総体
男子 跳馬 6位 池田(津)
同年 第6回国体(広島)
一般女子 8位 三重(扇田・田中・広野)
高校男子 10位 三重(池田・楠木・倉田)

1951年8月・青空の下での池田のつり輪。
後方の鉄骨は1945年(S20)7月28日米空軍、津市爆撃により旧津中雨天体操場消失、 その焼け跡に残った残骸鉄骨である。市中は木丸太組。輪は鉄骨製で双方当たると カーンと金属音が鳴り響いた。
1951年10月・津高校庭に旧海軍予科練から払い下げられた超重量付き平行棒を 数名で引っ張り出し、広島国体前に池田(左)前田(右)が記念撮影したもの。女子は 提灯ブルマ姿、男子と同じ平行棒(段違いではなかった)で肩倒立をしている。


(掲載日 2007年09月03日)