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<3>三重県体操連盟の誕生と香良州雨天体操場(1945〜1947)

 1945年(S20)8月15日太平洋戦勝終結。9月頃から各界の復興機運も高まってきつつある中、続々外地から復員軍人が帰国してきた。 そんな中に有本先生の姿はなかった。戦死されたのだ。後輩や生徒にやさしく、本人の生活は実に質素でみんなから尊敬されていた先生の死は 実に残念であり、その後の三重県体操界にとって大いなる損失となった。戦前指導を直接受けた子供達は、よく先生から「力をぬいて鉄棒運動 をするように…」といわれたという。これぞ、今でいうリラグゼーションの大切さを解かれたものと思われる。

 当時、県内の各旧制中等学校では体操の同好の芽はあちこちにあったようだが、戦後間もなく何とかせねばならないと思い立たれたのは、 瓜生省一(津定時制高)先生であった。そこで、小野寺・直田・打田(三重師範)服部(皇學館)川島(愛知学芸)在田・清水・田中(津中)角(山中) 諸岡(富中)らの各先生に声をかけられ、更には女子の方で、河合(四日市高女)岡田(三重師範)北岡(桑名高女)別所(津高女)古田(飯南高女)打田(神戸高女)らの 各先生にも呼びかけられて、とにかく体操部のある学校の様子を調査した。そしたら、北から桑中・富中・津中・津工・山中・尾鷲中・木本中、女子では四日市高女・ 河芸高女・県津高女・市津高女・飯南高女・鳥羽高女・尾鷲高女などに体操部又は同好会のあるところが分かった。

 そこで、戦後初の三重県の体操の組織を創ろうということになり、ここに、初代理事長は瓜生省一・会長は安西三四生(松阪鉄工社長)として1946年(S21)6月に三重県体操 連盟が誕生した。

 その頃、中央ではすでに三重県体操協会が復活し、全国規模の大会も企画されるようになっていた。そこで何とか三重県でも大会をもたねば、翌年の東海・全国の大会に県勢を 派遣することができないということになった。ところが、当時県内の体操の大会の可能な施設・会場・器具はどういう状況下をみると、ほとんど各学校には使えるものはなかった。 しかし、幸いにも旧海軍航空予科練習生訓練校が現在の津市香良洲町の三角州一帯にあった中に雨天体操場(バスケットボールコートが縦に3面とれる全長100m)が残っていた。 そして中には体操器具(当然今では想像もつかない硬いバー・四足の跳馬あん馬兼用・超重量台付の平行棒など)も十分に残っていた。それらが一斉に各体操部のある学校へ 払い下げとなって、関係校は喜んでとりにいった。

 勿論、第1回の三重県中学体操選手権大会兼第2回国民体育大会(金沢)県予選も香良洲の体育館で1947年(S22)6月行われた。また当時、桑中・富中・津中・ 津工業・山中・尾鷲中・四日市高女・河芸高女・県津高女・市津高女・飯南高女・宇治山田高女・鳥羽高女・尾鷲高女・三重師範などの合同練習も度々香良洲で行われた。
(今も当時のメンバーが3年に1度集まって旧交を温めている)


(掲載日 2006年05月24日)