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<2>戦前・戦中派の体操(1936〜1944)

 津中体操部創設から1年後1936年(S11)10月に第2回東海体操大会が名古屋城広場で開催され、津中(草川4年・後藤3年)が 三重県代表として出場した。これが三重県勢としての対外活動であった。当時は順位をつけず「三重県代表は優秀にして頼もし」と 評されたそうだ。この大会の中では有本選手らオリンピック選手の至技(究極の技に至る)が行われ、参加選手はおおいに感動したと 後に後藤らは手記している。

 一方当時地方では手作りの平行棒(バーの弾力なし)や、わらづめのマット、しかも屋外で生傷たえずといった状況下(現在なら 補償問題ばかり)で練習も大会も行われた。1937年(S12)年、第1回三重県体操大会が津中運動場(現・津高グランド、当時県下唯一の アンツーカーT)で開催され、県内中等学校生らと観衆約1万の見守る中、津中体操部を中心に一般性とらによって組立体操が行われた。

 その後明治神宮大会(現・国体)が1938年(S13)〜1942年(S17)まで開かれ、津中と三重師範学校体操部から出場した。 鈴木、前端、浅山(津中)、打田(三重師範)らが活躍した。

 一方当時の国際情勢・日本の社会情勢はだんだん暗くなってきていた。前記の1937年(S12)三重県体操大会開催と同じ年に日中戦争が 起こり、1938年(S13)東京五輪開催返上、1939年(S14)第二次世界大戦勃発、1941年(S16)12月8日、ついに太平洋戦争に突入していった。

 その間どんどん軍国色が教育・体操界にも浸透し、大会種目にも現れてきた。土嚢運びや鉄棒渡り、城壁越えなど、全く体操の種目とは…思えないもの まで入ってきた。ついには1944年(S19)4月いは大日本報国少年団大会(国民学校、現・小学校6年、各県県庁所在地より参加)なるもの まで開かれ、布製背嚢(ランドセル)に砂袋を入れ、手に木銃をもち、ほふく前進を競い、壕の中から手投げ団を投げるといった種目 まであった。津中は銃剣道必修、県立津高女は竹槍・棒術などが課せられ野外では正にゲリラ戦の訓練、屋内では軍需工場の動員となった。

 そして、県内主要都市は焦土と化し1945年(S20)8月6日(広島)9日(長崎)と原爆が投下され、1945年(S20)8月15日終戦となった。

(掲載日 2006年05月24日)