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<1>源泉から黎明期へ(1935〜1936)

1935年(S10)旧学制(小6中5)の三重県立第一中等学校(後・津中 現・津高)の3年生(草川・伊藤=1920 T2生)有志により、当時の学校長(第12代 有堀市三郎)に「器械体操部を創りたい」と願い出た。ところが目的・活動内容・構成員等が明確でないとして一蹴された。

そこで後日、週3回放課後に身体の鍛錬を原則とし、真・善・美を求めた体操精神を目的・内容とすることを学校長の前で、淡々と弁舌し、有志名簿を提出して懇願した。

ところが、提出した構成員(メンバー)では文武両道の士とは言い難いとして、再度認められなかった。(つまりメンバーの学業成績が芳しくないということ)そこで生徒らは考えて当時の同級生の内、成績が1〜10番以内の友人を頼み込みその内6名(この中には運動全くダメもいたという)を名簿に加え、綿密な練習計画(学習計画を入れて)を立て、再度懇願した。ところが、またしても趣旨・構成員はよく分かったが、責任教諭がいないじゃないか?何か事故があった時に誰が責任をもつのか、付き添って指導してくれる教諭がいない校友会活動は、校長としては認めるわけにはいかないと再々度認められなかった。そこで即座に有志生徒の一人(草川)が「それじゃ校長先生が責任教諭をつけてくれれば・・・」とせまったがダメだった。<

誰か顧問になってくれる本校教諭を君達の手で説得することができたら再考しようということになり、一週間後体操(体育)の教諭のところに行き「○○先生なら多分体操部の顧問を引き受けてくださるだろうと校長先生が行ってみえましたので全員でお願いに参りました。」と(偽って)打診してみたら、小野寺堅太郎(後・三重大学名誉教授)先生と藤原淳一先生が顧問を引き受けて下さった。

そして、承諾印を受けて意気揚々と校長室に乗り込んだ。さすがに校長も折れ、「後日、職員会議にかけて承認されれば体操部の活動を許可する」ということになった。

1935年(S10)11月、旧制津中体操部は三重県で初めて体操部を創設した。

これが体操三重の源泉ではないかと思われる。

さて、当時の時代背景にはどんなものがあったのだろう。いわゆる戦前の若者(大正末期〜昭和3生)は、まだまだ大正デモクラシーのなごりをもっていたといえる。そして第12回オリンピック大会(1940年まぼろしの東京五輪)招致委員会も結成された時代でもあった。なお、その前回の1936年・第11回オリンピック大会(ベルリン)に有本彦六(熊野市木本出身・日体専)選手が出場したので、関心ある津中体操部員はおおいに刺激されたと察せられる。

それを機に小野寺・藤原らの先生は、他校(富中、上中、山中・・・)にも呼びかけ三重県大会を持とうとされたようだが、津中だけしか部は成立しなかった。

(掲載日 2006年05月24日)